プロフィール

自己紹介

今までの自分に関わる全てを紹介すると長くなってしまうので、今の私を端的に表していると感じている、「若者、バカ者、よそ者」のフレーズで整理して、自己紹介させていただければと思います。

*「若者、バカ者、よそ者」は、私が調べた限りでは、真壁昭夫さんの著書のタイトルからとられ、慣用句化したもののようで、地方創生の事例紹介などで使われることがあります。
http://urx.red/PcKr

・若者
1983(昭和58)年9月1日に生まれました。関東大震災発災からちょうど60年にあたります。
それもあって以前から防災に興味があり、消防団にも加入しています。
現在35歳です。35歳が若者といえるか否かは悩ましいところですが、人生100年を一日に置き換えると、午前8時24分にあたります。まだまだこれから!と自分では思っています。

「若者、バカ者、よそ者」の文脈における「若者」は、固定観念にとらわれない、という意味を含んでいます。プロフィールから固定観念にとらわれない自分を紹介すると、2度目の転職がそれにあたるかなと思います。
1社目、2社目では広告営業、3社目はセキュリティのシステム営業。
同じようなキャリアの人にこれまで出会ったことはなく、実際に勝手が全然違いましたが、固定観念にとらわれず、変化を恐れぬ挑戦心で取り組んでいました。

・バカ者
12月に双子の父親になりました。おむつが他のご家庭の2倍のペースでなくなっています。そうなることをわかっていながら、安定した職をなげうって政治家になりました。しばらく無収入です。
旧来の価値観の枠組みから外れた行動をとってしまうバカ者です。

・よそ者
地理的な意味では、埼玉県出身で、仙台や札幌でも暮らしたことがあります。
生まれも育ちも地元、という政治家が世の中一般では多いですが、その中によそ者の価値観を吹き込ませていきたいと思っています。

「若者、バカ者、よそ者」文脈での「よそ者」は、今までのやり方を知らない、という意味が含まれているようです。政治について具体的なやり方のレベルで学び始めたのは、2年前に小池百合子東京都知事が開催していた「希望の塾」でした。
今までのやり方について、勉強不足なのが事実ですし、今までの政治のやり方に染まることなく、将来世代のための施策を積み重ねていきたいと思っています。

プロフィール

1983(昭和58)年9月1日、埼玉県与野市に生まれました。3歳ごろまで話せず、周囲をやきもきさせたようですが、話し出したらずっと話していたそうです。左ページが絵で、右ページに文字が書いてある絵本をたくさん買ってもらっていた。絵を見せると文章を暗誦できる本が10冊以上あったということで、祖父母は大層期待していたようです。
小学一年生の時に浦和に引っ越し、浦和市立神田小学校を卒業。中学受験では当時御三家の一角だった武蔵中学校を志望していましたが、不合格。滑り止めで受験していた私立城北中学校へ進学しました。12歳にして「敗北」を味わった人が集まるからか、城北の同級生たちは今、様々な分野でしなやかに活躍しています。
中学校時代、勉強はからきしでしたが、その分部活のサッカーに情熱を燃やしていました。特に中学3年生の時に浦和レッズに加入した小野伸二選手に憧れ、他の部員が帰っても、暗くなってボールが見えなくなるまでずっと練習していました。その努力もむなしく、ずっと補欠でしたが、それでもサッカーが大好きでした。
城北高等学校に進学。恩師に出会います。政治経済の先生で、「俺についてくれば早稲田にだったら入れてやる」と言い切るその先生に引っ張られる形で、少しずつ勉強をし始めました。高校2年生の途中からは、美術室で朝5時から勉強する朝起き会に参加。政治経済の先生は高校の3年間ずっと担任をしてくれていたこともあり、たくさんのクラスメイトと早稲田を目指して切磋琢磨する日々でした。

2002年、早稲田大学法学部に合格。入学金を振り込んだ翌日に、祖父と父が経営していた建設会社が、系列のゼネコンに連鎖する形で倒産しました。入学金払ったし、ということで進学しましたが、自分でも稼がなくては、という気持ちでアルバイトに励む日々。焼肉の「牛角」で飲食業の仕事のおもしろさにのめりこみました。他のお店で調理場を3年以上経験し、社員への誘いをいただいたことも。入学式の日に買った六法全書はほとんど開かれることもなく、入ったサークルも途中で解散し、いわゆるキャンパスライフは充実していたといえるものではありませんでした。
大学を一年留年し、2007年に株式会社リクルートに入社。『住宅情報』(現SUUMO)の新築マンション部門で営業を担当。22時より前に帰ろうとすると「何か予定あるの?」と言われる時代を新人として過ごし、お客様であるマンションデベロッパーの事業成功を、広告による集客で支援する仕事に夢中になって取り組みました。この仕事を通じて、社内はもとより、クライアントとして知り合い、今も家族ぐるみの付き合いをしている友人が多数できました。
2011年3月10日、仙台への転勤の内示を受けました。翌日に東日本大震災が発災。遅れて5月に着任し、安心・安全を求めて新築マンションを求める仙台市民と向き合う中で、デベロッパーが作ったマンションを売る仕事から、マンションを作る計画そのものを支援する仕事に、自分たちの仕事の始点を再定義して取り組みました。2013年4月からは札幌に赴任し、札幌から仙台もあわせて統括していました。

政治家になったきっかけ

政治家にも2パターンあると思っていて、
①若い時分に「いつか政治家になりたい」という志を抱き、政治家になるために生き方を定めてきた人
②政治家を意識することなく人生の選択を重ねた結果、政治家になっていた人
と分けた時に、先日の記事にも書いた通り、私は②のタイプです。

いくつかの「きっかけ」の重なりをご紹介していきます。
同世代のビジネスマン、共働きのご夫婦には、ご経験済みのできごとや、感じ方が似ている部分があるのではないか、と思っています。

妻が教育研修の会社に転職して2年目、キャリアアップのチャンスを掴みました。
GCDFというキャリアカウンセリングの資格を取るためのスクールに、会社の補助で通わせてもらえることになりました。

結婚した時、私は転勤で仙台にいたため、妻は誇りをもって取り組んでいた仕事を辞めて仙台に来てくれていました。そして東京に戻ってきて、また別の天職に出会おうとしている。
応援するよと話し、平日に予習復習をしながら週末にスクールに通う日々が始まりました。

応援する側に回った私は、ビジネスパーソンとして成長する妻に、少しずつ置いていかれたように感じはじめていました。
転勤先でも、東京に戻ってきてからも、週末は二人で過ごし、それぞれの友達と会う時も夫婦一緒に会いに行っていました。
GCDFのスクールが始まってから、妻が出かけ私は家に残り、交友関係の広がりにも知識の向上にもついていけない。

このままではいけない、と焦燥感に駆られました。
自分も何か始めないといけない。このままではいけない。何か学ばなくては。

2016年の秋。圧倒的な支持の下に誕生した小池百合子東京都知事が、
余勢を駆って政治の世界に新しい風を吹かせよう、と主宰した「希望の塾」に大勢の受講者を集めていることを、ネットもテレビも盛んに報じていました。
東京が、世の中が前向きに変わるのでは、という期待感が画面から弾けていました。

既に始まっていた「希望の塾」を報道で見て、今やるべきはこれだったな、出遅れちゃったな、なんて思っていました。
そんな時に、盛況を受け塾生を追加で募集するという報道を見て、今度こそ申し込まなくては、そう思い「希望の塾」の門を叩きました。

「希望の塾」での学びは、何かを学ばなくては、という私の渇望感を十分に満たしてくれた
だけではなく、無意識に確立していた思い込みをも打破してくれました。

「政治は難しい。つまらなそう」
社会保障は今後どうしていけばいいのか。近隣諸国とどう向き合っていくのか。
ニュースで日々触れている国政の課題は、答えを出せないものばかりのように思っていました。
正しいか確信は持てなくても、とりあえずの答えを出して進めていけるビジネスの世界と比べると、
楽しくなさそう。自分ではなく、子どもの頃から政治を志していた「特別な人たち」が、
特別な使命感のもと取り組んでくれている、そう距離を置いて考えていました。

「希望の塾」を受講して理解できたことは、
・地方政治の課題には解決策がある
・課題と打ち手はセットで存在するが、実行力のある政治家が足りていない
という内容でした。

地方政治の課題として講義で取り上げられていた、たとえば待機児童問題は、自分にとっても切実な課題であり、その解決に直接的に貢献できることに魅力を感じました。
実行力は、営業の世界で磨きこみ、これまでのビジネスマン人生を支えてくれた力でした。

地方政治の課題には解決策があり、それをやりきることで世の中がよくなる。
リクルートにいた頃から悩み続けていた、自分が本当にやりたいことは何なのか。
どうやらそれは、地方政治なのではないか、と感じました。

希望の塾は、2017年夏の都議選に擁立する、新人候補の選抜をその目的の一つにしたものと理解していますが、私自身も出馬の面談を受けました。
杉並から引っ越して立候補しないか、という内容であり、結局お断りをしたのですが、
面談の前後、選挙に出ることを具体的に考え、夫婦で真剣に話し合いました。

都議選は杉並区の候補をボランティアとして支援し、その候補は当選。
選挙の翌日から私も転職先で新しい仕事をスタートしました。

都議選を区切りに、新しい仕事に取り組み始めましたが、並行して地域コミュニティに参加するようになりました。

希望の塾での学び、『LIFE SHIFT-100年時代の人生戦略』の内容や、「イクメンはイキメン(地域活動をする男性)に進化する」という言説など、様々な角度から「地域に根差して生きよ」と背中を押されているように感じていました。

地域コミュニティに参加する上で、そうはいっても不安に感じていたことが2つありました。
・浦和出身のよそ者だが、荻窪の地元の人に受け入れてもらえるのか
・子どもがいないことで嫌なことを言われないか

「受け入れてもらえるのか」については、早々に安心できました。
地域コミュニティの方々のご子息達も、多くは企業で働いていて転勤などで荻窪を離れ、若い人たちはたくさん住んでいるけれど、地域と繋がっていない。
若い力の地域参加を、地域コミュニティの先輩方が自発的に欲されていました。
荻窪の出身でなくとも、優しく暖かく受け入れていただきました。

子どもがいないことで嫌なことを言われないか。
少し前に読んだAERAの安倍昭恵さんインタビューで紹介されているような、心無い言葉を浴びせられたりしないか。
悪気はなくとも、我慢ならないようなことを言われないか。
地域コミュニティだからというより、その構成員であるシニア世代全体への雑な偏見だったと今は思っていますが、参加当初かなり警戒していました。

「お子さんは?」「いないんです」「そうなの」
地域の方ほとんど全員と重ねた会話ですが、それ以上に踏み込んでくる人は一人もいませんでした。
口の悪い人もいるし、お孫さんの成長が生きがいという人も多くいますが、「いないんです」の行間を汲み取るだけの経験と思いやりが、荻窪の方々には備わっていました。

お酒の場で、政治の話になることも多々あります。
いわゆる「シルバー民主主義」に身構えていましたが、ご自身たちのことより、私の世代に対する政策が不足している、と本気で憂えてくれていました。

子どもを授かった時、産まれた時、身内のように喜んでくれました。

この人たちのためにもっと働きたい。
自分たちの世代や将来世代のために政治家として働きたい。
杉並区であれば、これが両立できると思いました。

こうして、杉並区で立つ決意を固めました。
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