プロフィール

杉並区議会議員

松本みつひろ

誕生〜高校卒業まで

1983(昭和58)年9月1日、埼玉県さいたま市(当時の与野市)に生まれました。3歳ごろまで話せず、周囲をやきもきさせたようですが、話し出したらずっと話していたそうです。左ページが絵で、右ページに文字が書いてある絵本をたくさん買ってもらい、絵を見ると文章を暗誦できる本が10冊以上あったということで、祖父母は私の将来を大層期待していたようです。

小学一年生の時に浦和に引っ越し、浦和市立神田小学校を卒業。中学受験で私立城北中学校へ進学しました。中学校時代、勉強はからきしでしたが、その分部活のサッカーに情熱を燃やしていました。特に中学3年生の時に浦和レッズに加入した小野伸二選手に憧れ、他の部員が帰っても、暗くなってボールが見えなくなるまでずっと練習していました。その努力もむなしく、ずっと補欠でしたが、それでもサッカーが大好きでした。

城北高等学校に進学。恩師に出会います。政治経済の先生で、「俺についてくれば早稲田にだったら入れてやる」と言い切るその先生に引っ張られる形で、少しずつ勉強をし始めました。高校2年生の途中からは、美術室で朝5時から勉強する朝起き会に参加。政治経済の先生は高校の3年間ずっと担任をしてくれていたこともあり、クラスメイトと早稲田を目指して切磋琢磨する日々でした。

大学入学〜サラリーマン時代

2002年、早稲田大学法学部に合格。入学金を振り込んだ翌日に、祖父と父が経営していた建設会社が、系列のゼネコンに連鎖する形で倒産しました。家計が急に不安定になる中、入学金を払ってしまったし、と進学。

一方で自分でも稼がなくては、という気持ちでアルバイトに励む日々、焼肉の「牛角」で飲食業の仕事のおもしろさにのめりこみました。他のお店で調理場を3年以上経験し、社員への誘いをいただいたことも。入学式の日に買った六法全書はほとんど開かれることもなく、入ったサークルも途中で解散し、いわゆるキャンパスライフは充実していたといえるものではありませんでしたが、仕事って面白い!というマインドはこの頃に完成したのかもしれません。充実した日々でした。

大学を一年留年し、2007年に株式会社リクルートに入社。『住宅情報』(現SUUMO)の新築マンション部門で営業を担当。22時より前に帰ろうとすると「何か予定あるの?」と言われる時代を新人として過ごし、お客様であるマンションデベロッパーの事業成功を、広告による集客で支援する仕事に夢中になって取り組みました。この仕事を通じて、社内はもとより、クライアントとして知り合い、今も家族ぐるみの付き合いをしている友人が多数できました。

2011年3月10日、仙台への転勤の内示を受けました。翌日に東日本大震災が発災。遅れて5月に着任し、安心・安全を求めて新築マンションを求める仙台市民と向き合う中で、デベロッパーが作ったマンションを売る仕事から、マンションを作る計画そのものを支援する仕事に、自分たちの仕事の始点を再定義して取り組みました。2013年4月からは札幌に赴任し、札幌から仙台も統括していました。2015年4月、東京に戻りました。

政治家になったきっかけ

東京に戻って1年が過ぎるころ、教育研修の会社に転職していた妻が、キャリアアップのチャンスを掴みました。 GCDFというキャリアカウンセリングの資格を取るためのスクールに、会社の補助で通わせてもらえることになりました。
結婚した時、私は転勤で仙台にいたため、妻は誇りをもって取り組んでいた仕事を辞めて仙台に来てくれていました。そして東京に戻ってきて、また別の天職に出会おうとしている。 応援するよと話し、平日に予習復習をしながら週末にスクールに通う日々が始まりました。

応援する側に回った私は、ビジネスパーソンとして成長する妻に、少しずつ置いていかれているように感じていました。 転勤先でも、東京に戻ってきてからも、週末は二人で過ごし、それぞれの友達と会う時も夫婦一緒に会いに行っていました。 GCDFのスクールが始まってから、妻が出かけ私は家に残り、交友関係の広がりにも知識の向上にもついていけない。自分はこのままでいいのか、と焦燥感に駆られていました。

自分も何か始めないと、何か学ばなくては。2016年、政治の世界に新しい風が吹き込み、政治塾に多くの受講者が殺到していることを、ネットもテレビも盛んに報じていました。 東京が、世の中が前向きに変わるのでは、という期待感が画面から弾けているのを報道で見て、「今やるべきはこれだったな、出遅れちゃったな」と感じました。

塾生を追加で募集することを知り、今度こそ申し込まなくてはと、政治塾の門を叩きました。入塾した時点では、政治というのは、子どもの頃から政治を志していた「特別な人たち」が、 特別な使命感のもと取り組んでくれているもののように捉えていました。政治塾で、

・地方政治の課題には解決策がある
・課題と打ち手はセットで存在するが、実行力のある政治家が足りていない

ということを学びました。地方政治というフィールドは、リクルートで培ってきた能力を発揮できる場所である、という気づきを得ました。「自分が本当にやりたいことは何なのか。」どうやらそれは、地方政治なのではないか、と感じました。そして当時私たち夫婦が苦しみながら取り組んでいた、不妊治療の環境を変えるために、政治の側からアプローチする、という「大義」をつかむことができました。
→不妊治療を軸とした、私のストーリーをまとめていただき、書籍として出版しています。

2017年夏の都議選に擁立する、新人候補の選抜の一環で、私自身も出馬の面談を受けました。 杉並から引っ越して立候補しないか、という内容であり、結局お断りをしたのですが、 面談の前後、選挙に出ることを具体的に考え、夫婦で真剣に話し合いました。
都議選は杉並区の候補をボランティアとして支援し、その候補は当選。 選挙の翌日から私も転職先で新しい仕事をスタートし、並行して地域コミュニティに参加するようになりました。

杉並に根を下ろし、荻窪の人間になっていく

地域コミュニティに参加するにあたり、自分が杉並区(荻窪)の出身ではないことを、地元の皆さんがどのように受け止めるか、また子どもがいないことで嫌なことを言われないか、という点を懸念していました。今振り返ると、地域コミュニティというより、親以外のシニア世代を知らないゆえの偏見だったと思いますが、当初かなり警戒していたことを覚えています。

「受け入れてもらえるのか」については、早々に安心できました。地域の方々の後継者達も、多くは企業で働いていて転勤などで荻窪を離れ、若い人たちはたくさん住んでいるけれど、地域と繋がっていない。若い力の自発的な地域参加を、優しく暖かく受け入れていただきました。

この当時、結婚してから5年を迎えていましたが、まだ子どもがいませんでした。子どもがほしかった私は、そのことをとても気にしていて、嫌なことを言われるのではないかと怯えていました。実際に「お子さんは?」という問いかけはしばしばありましたが、「いないんです」と答えると、それ以上に踏み込んでくる人は一人もいませんでした。口の悪い人もいるし、お孫さんの成長が生きがいで孫の話をいつも嬉しそうにされている人もいますが、「いないんです」の行間を汲み取るだけの経験と思いやりが、荻窪の方々には備わっていました。

お酒の場で、政治の話になることもあります。いわゆる「シルバー民主主義」が展開されるものと身構えていましたが、ご自身たちのことより、私の世代に対する政策が不足している、と本気で憂えていました。地域の重鎮の一人が、「俺たちの時代の政治はな、子ども達のために何もしないまま終わってしまうんだな」ということを、飲み会の終わりに時々仰います。元気にお話しできるうちに、この人の無念を晴らして差し上げたいと思っています。

子どもを授かった時、そして出産という奇跡を経て無事に双子が産まれた時、荻窪の皆さんは身内のことのように喜んでくれました。この人たちのためにもっと働きたい。そして自分たちの世代や将来世代のために政治家として働きたい。杉並区であれば、荻窪の議員であれば、これは両立すると思いました。こうして、杉並区で立候補する決意を固めました。

政治活動のはじまり、そして議会へ

2018年12月に双子が誕生。その月末に会社を辞めて、年明けから政治活動を開始しました。普段歩いて通り過ぎる駅の前に、夜明け前から立ち続けるのは想像以上に辛く、1月ということもあり寒さが身に染みる日々でした。開始3日目に「少し熱っぽいので今日は休む」と妻に言ったところ、「仕事辞めての真剣勝負なのにふざけてるの?」と一喝され、それ以降よほど天候が崩れない限り毎朝駅に立ちました。

1月下旬には日本維新の会の公認が決定。翌日さっそく、東京維新の会幹事長のやながせ裕文都議会議員(当時。現在は東京維新の会代表/日本維新の会総務会長/参議院議員)が朝の荻窪に来てくれて、普段私が2時間で20枚しか配れないチラシを20分で80枚配るという、圧倒的な力の差を見せつけられました。やながせさんに教わった通りに愚直に選挙を戦いました。

選挙初日の第一声を行った荻窪駅北口での街頭演説では、聴衆としてお誘いした80歳を超える支援者の方が、演説の途中でチラシを追加で取りに来て、その場で配り始める様子を目の当たりにして、なぜかその時生意気にも「この選挙勝った」と感じたことを鮮明に覚えています。2,735票余(同姓の候補者との按分により小数点以下あり)で杉並区議会議員選挙に当選しました。僭越な私と裏腹に、開票立会人を務めた妻にとって開票は非常に緊張したようで、祝勝ムードの事務所に戻ってくるや否や、安心してわんわん泣いていました。

2019年5月〜

常任委員会:保健福祉委員会
特別委員会:災害対策・防犯等特別委員会
その他:ICT活用検討推進委員会、杉並区情報公開・個人情報保護審議会、都市開発公社評議員会

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2020年5月〜

常任委員会:総務財務委員会
特別委員会:文化芸術・スポーツに関する特別委員会
その他:ICT活用検討推進委員会、杉並区情報公開・個人情報保護審議会、消防団運営委員会

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2021年5月〜

常任委員会:保健福祉委員会(副委員長)
特別委員会:災害対策・防犯等特別委員会
その他:ICT活用検討推進委員会、杉並区情報公開・個人情報保護審議会

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2022年5月〜

常任委員会:都市環境委員会
特別委員会:文化芸術・スポーツ、まちのにぎわいに関する特別委員会(委員長)
その他:ICT活用検討推進委員会、杉並区情報公開・個人情報保護審議会

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